ラグランジアンカオス


流体運動の記述法には,速度,圧力などの物理量を時間と空間座標の関数として表すオイラー的記述法と, 各流体粒子(流体の微小部分)の位置や圧力を流体粒子を指定する量(例えば,ある時刻における各流体粒子の位置) 及び時間の関数として表すラグランジュ的記述法がある.水や空気の運動の基礎方程式として通常用いられる ナビエ・ストークス方程式はオイラー的記述法に従ったものである. この記述法における速度場が時間的に一定かあるいは時間とともに周期的に変化する規則的なものであっても, その速度場における流体粒子の運動はカオス的になり得る. 流体粒子の動きを直接見るというのはラグランジュ的記述法での考え方なので, このようなカオス的運動はしばしばラグランジアンカオスと呼ばれる.

ラグランジアンカオスの研究においては,通常は流体の非圧縮性を仮定するので, 流体粒子の運動を支配する方程式はいわゆる保存系となる. 保存系は,従属変数の空間内の任意の微小部分の体積が,この微小部分内の各点の時間発展によって変化しないような方程式系であるが, 今の場合は,流体粒子の座標の空間そのものが従属変数の空間なので,この体積の不変性が流体の非圧縮性に対応しているわけである. さて,保存系は可積分系と非可積分系に分けられる.例えば保存系の代表的なものであるn自由度のハミルトン系の場合は, 従属変数の関数で,時間的に不変で互いに独立なものがn個存在すれば可積分系であり,そうでなければ非可積分系である. 可積分系では,従属変数の空間におけるすべての解軌道は規則的なものとなり,カオスは現れない. 一方,非可積分系ではカオス解が可能である.

非圧縮性流体の2次元流れの場合は,流体粒子の運動を支配する方程式は, 流れ関数をハミルトニアンとする1自由度のハミルトンの正準方程式の形に書ける. そして,定常流では流れ関数が時間的に不変であるので,流体粒子の運動を支配する方程式は可積分系となるが, 非定常流では自明な不変量は存在しないので,非可積分系になる可能性がある. とくに速度場が時間に関して周期的で非可積分系である場合を考えると, 従属変数の空間すなわち流体の占める2次元領域は規則領域とカオス領域に分けられることが知られている. 規則領域から出発した流体粒子は可積分系のときと同様に規則的な動きをするが, カオス領域から出発したものはこの領域内を不規則に複雑に動き回る. また,速度場の1周期ごとの流体粒子の位置の時間発展を考えた場合, 一方の領域から出発した流体粒子は決して他方の領域には入りこまない. 2次元の時間的に周期的な速度場に対するラグランジアンカオスの研究の代表例としては, 交互に周期的に回転する偏心2円筒間の遅い流れ,上下の壁がその面に沿って交互に周期的に動く長方形領域内の遅い流れ, セルの境界の位置が時間的に振動している多数の熱対流セルの流れなどがある.

3次元定常流に対しては,流体粒子の運動を支配する方程式の解の振る舞いがカオス的であって, 非可積分系であると思われるものがいくつか知られている. この場合のカオスは,流線が複雑な幾何学的構造をもつことを意味しているので,「流線のカオス」とも呼ばれる. 例として,3次元キャビティー流れ,2方向に曲がった円管内の流れ,球状領域内の遅い流れなどがある.

参考文献:

[1] 船越満明,「カオス混合」,日本流体力学会誌ながれ, 15巻,4号,(1996) pp.261-264.

[2] "The Kinematics of Mixing : Stretching, Chaos, and Transport", by J.M.Ottino, Cambridge Univ. Press (1989).


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偏心2円筒間の流れにおける流体のカオス的運動(ラグランジアンカオス)

偏心2円筒が交互にゆっくりとした周期的回転を行う場合,2円筒間の流体はカオス的に動くことがある. 上に示す図は1周期の間に,外円筒を半時計回りに1回転,内円筒を時計回りに1回転させた場合の数値計算によるポアンカレプロットの例である. ポアンカレプロットは2円筒の回転の1周期ごとの流体粒子(流体の微小部分)の位置を示したものでこの図の場合個の初期点に対して周期分プロットしてある. この図の中で,点がランダムに散らばっている領域が”カオス領域”と呼ばれていて, この領域内から出発した流体粒子は,初期位置のずれに大変敏感で,複雑な動きをする(カオス的運動). 一方,内円筒の右側の多数の閉曲線からなる領域は”島状領域”と呼ばれていて, この領域内から出発した流体粒子は1つの閉軌道上を動く規則的な振る舞いをする. またカオス領域と島状領域は完全に分離しており,各領域内の流体粒子は相手の領域に決して入っていかないので, 流体の一様な混合をめざす場合には,島状領域はなるだけ小さい方が望ましいと考えられる.

関連論文:

[3] T.Atobe, M.Funakoshi, S.Inoue, "Orbital Instability and Chaos in the Stokes Flow between Two Eccentric Cylinders", Fluid Dynamics Research, Vol.16, Nos.2-3, pp.115-129, (1995)

[4] T.Atobe and M.Funakoshi, "Chaotic Motion of Fluid Particles Due to the Alternate Rotations of Two Eccentric Cylinders", Journal of the Physical Society of Japan, Vol.63, No.5, pp.1738-1753, (1994)